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【社会制度構想】情託(JOHTAKU)原理念 ― 人間の時間と尊厳を取り戻すために ―

情託(JOHTAKU)原理念

― 人間の時間と尊厳を取り戻すために ―

発案者:露木良治
構想発案日:2026年10月22日
原理念起草日:2026年10月30日

はじめに

情報技術は、本来、人間の生活を便利にし、自由な時間を増やし、人生を豊かにするために発展してきた。

しかし、情報社会が高度化するにつれ、私たちは数多くのIDやパスワード、本人認証、アプリケーションの更新、契約手続き、個人情報の管理などに、多くの時間と労力を費やすようになった。

一つひとつのサービスは便利になっても、それらを使い続けるための負担は、利用者自身に積み重なっている。

企業や組織の効率化が、必ずしも社会全体の効率化につながっているとは限らない。

私たちは、情報技術を利用するために生きているのではない。より豊かに生きるために、情報技術を利用しているのである。

情託(JOHTAKU)は、情報社会における人間の負担を軽減し、人間が本来大切にすべき時間、自由、尊厳、そして人と人とのふれあいを取り戻すために構想された。

 

 

情託の三原則― 人間を中心とするIT社会を目指して  ―

本三原則は、IT社会全体に適用される普遍的な法則を主張するものではなく、情託の構想を通じて、情報技術と人間の望ましい関係を考えるための指針として提唱するものである。

第一原則 人間尊重

ITは、人間の尊厳、自由、意思を尊重し、人間を中心として発展すべきである。

第二原則 負担の軽減

ITは、人間に新たな負担を強いるのではなく、人間の時間と労力を軽減する方向に発展すべきである。

第三原則 人間的豊かさの増進

ITは、人と人とのふれあいを大切にし、人間が人生を豊かに味わえる社会の実現に向けて発展すべきである。

 

三原則と情託原理念の関係

情託の三原則は、情報技術が人間社会において目指すべき方向を示すものである。

第一原則は、人間の尊厳と意思を尊重することを求める。

第二原則は、情報技術が人間の負担を軽減し、その時間と労力を人間自身に取り戻すことを求める。

第三原則は、情報技術の発展が、人間の生活と心の豊かさにつながることを求める。

これらの三原則は、情託という制度だけに限定されるものではなく、広くIT社会全体に向けた指針として提唱するものである。

情託(JOHTAKU)は、この三原則を情報社会の現実の中で実現するために構想された社会制度である。

以下に定める八条の原理念は、三原則を情託の制度設計と運営に反映させるための基本的な考え方を示すものである。

三原則を目指すべき方向とし、八条をその実現のための基本理念として、情託は時代とともに発展していくことを目指す。

 

情託(JOHTAKU)原理念

 

第一条 人間を中心とする情報社会

情報技術は、人間のために存在する。

人間が技術や制度に合わせることを当然とするのではなく、技術や制度が人間の多様な能力、生活、価値観に寄り添うべきである。

情託は、技術の高度化そのものを目的とせず、人間の生活と心の豊かさに資することを根本理念とする。

第二条 人間の時間の回復

情報社会を利用するために必要な管理や手続きは、可能な限り簡素化されるべきである。

情託は、個人が負担している情報技術の維持管理に伴う時間と労力を軽減し、人間が自らの意思で使える時間を増やすことを目指す。

その時間は、家族や友人とのふれあい、仕事、学び、創造、休息など、一人ひとりが大切にする営みに使われるべきものである。

便利さは目的ではない。人間の豊かさを実現するための手段である。

第三条 個人情報の尊重と最小提供

個人情報は、個人の生活、人格、尊厳と深く結びついている。

企業や組織の利便性のために、個人情報が必要以上に収集、複製、蓄積、提供されることは望ましくない。

情託は、個人情報を集積すること自体を目的とせず、社会サービスの利用に必要な情報だけを、必要な範囲で適切に取り扱う仕組みを目指す。

個人情報を多く集めることではなく、不必要に広めずに済むことに価値を置く。

第四条 本人の意思と選択の自由

情報社会への参加は、個人の意思と選択に基づくべきである。

情託は、利用者の意思を尊重し、利用を強制しない。

自ら情報技術を使いこなしたい人も、他者の支援を受けたい人も、それぞれにふさわしい方法を選択できる社会を目指す。

情報技術に関する知識や能力の違いによって、人間の尊厳が損なわれたり、社会参加の機会が不当に制限されたりしてはならない。

第五条 人と人とのつながり

情報技術の進歩は、人間同士のふれあいを不要にするものではない。

情報社会においても、困ったときに相談できる人がいること、顔を合わせて説明を受けられること、自分の事情を理解してもらえることには、大きな価値がある。

情託は、デジタル技術による利便性と、人間による温かな支援が共存する社会を目指す。

人とのふれあいを望む人には、その機会を保障する方向を目指す。同時に、一人で自由に行動したい人の意思も尊重する。

第六条 透明性と検証可能性

個人は、自らの個人情報がどのように取り扱われているかを知ることができるべきである。

情託は、個人情報が、いつ、誰に、何の目的で提供されたのかを、適切な範囲で記録し、本人および正当な権限を持つ者が検証できる仕組みを目指す。

その記録自体についても、プライバシーの保護と不正利用の防止に十分配慮する。

透明性は、利用者の信頼を得るためだけでなく、情託自身の行為を検証し、責任を明確にするために必要である。

第七条 安全性と責任

いかなる技術や制度も、完全に無謬であるとは限らない。

情託もまた、情報漏洩、誤処理、不正利用その他の問題が生じる可能性を認識しなければならない。

情託は、事故の予防に努めるとともに、問題が発生した場合には、事実の解明、適切な情報提供、説明責任、被害の軽減と救済を重視する。

過ちを隠すことなく、検証し、改善を続けることを基本姿勢とする。

第八条 社会への開放と共生

情託は、特定の個人や企業による利益の独占を目的として構想されたものではない。

その理念は、広く社会に共有され、多様な人々や組織の協力によって実現されることが望ましい。

情託を担う機関は、一つに限定される必要はない。複数の独立した機関が、共通の理念と適切な基準のもとで連携し、利用者の利益を第一に考える社会的な仕組みを目指す。

普及や事業の拡大そのものよりも、利用者の尊厳、安全、信頼を優先する。

おわりに

情託は、情報社会を否定するための構想ではない。

情報技術がもたらした恩恵を認め、その恩恵を、より多くの人々が安心して享受できる社会を実現するための提案である。

今後、情報技術はさらに進歩し、社会制度も変化していくだろう。情託の具体的な仕組みも、時代に応じて改良されていくべきである。

しかし、その出発点となった願いは変わらない。

人間を技術に合わせるのではなく、技術を人間に合わせること。

情報技術の維持に費やされる時間を減らし、人間が自らの人生を豊かに味わうための時間を取り戻すこと。

そして、人と人とのふれあい、温かさ、思いやりが失われない情報社会を築くこと。

情託は、その実現を目指して提唱された。

この理念が、将来、情託に関わるすべての人々にとって、原点を振り返るための指針となることを願う。

 

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【社会制度構想】情託(JOHTAKU)構想 ― 個人の情報と信用を預かる、新しい社会インフラの提案 ―

情託(JOHTAKU)構想

― 個人の情報と信用を預かる、新しい社会インフラの提案 ―

構想原案:2026年10月22日
名称「情託(じょうたく)」「JOHTAKU」はいずれも仮称

1.はじめに ― なぜ、情託が必要なのか

現代社会では、インターネットを利用した商取引が日常のものとなった。私たちは、自宅にいながら商品を購入し、さまざまなサービスを契約できる。しかし、その利便性の裏側で、個人には新たな負担が生じている。

商品を購入するたびに会員登録を求められ、氏名、住所、電話番号、メールアドレス、決済情報などを入力する。企業ごとにIDとパスワードを管理し、ときには専用アプリや多要素認証にも対応しなければならない。一人の消費者が、数十、数百もの企業に個人情報を預けることも珍しくない。

ここで、日常の買い物を振り返ってみたい。スーパーマーケットで食料品を購入するとき、通常、私たちは身分証明書を提示しない。商品を選び、代金を支払えば、商取引は成立する。ところが、インターネット上では、同じような商品を購入するために、なぜ多くの個人情報を登録しなければならないのだろうか。

もちろん、年齢確認や法令上の本人確認が必要な取引もある。しかし、あらゆる商取引において、販売者が顧客の恒久的な個人情報を保有する必要があるとは限らない。

商取引の成立に、顧客の身元を知ることは必須ではない。

この問いから、新しい社会制度としての「情託」の構想が生まれた。

2.情託とは何か

情託とは、個人から委託された情報を管理し、商取引に必要な情報や権限を、本人の意思に基づいて相手方へ仲介する専門機関である。情託(じょうたく)を仮称とする。

情託の理念は、次の一文に集約できる。

「銀行はお金を預かる。情託は信用を預かる。」

銀行は、顧客の資金を管理し、預金や決済などの金融機能を担っている。これに対して情託は、個人の情報、契約関係、取引上の資格や権利、各種の認証情報などを、本人からの委託に基づいて管理する。ここでいう「信用を預かる」は、制度の理念を表す言葉である。

情託は銀行の代わりになるものではない。資金の保管や移動は金融機関が担い、情託は必要に応じて決済の指示を仲介する。商品の販売や配送も、それぞれの事業者が担う。情託の役割は、個人の情報と取引上の権利の管理を専門に引き受けることである。

 

3.情託の基本思想 ― 無数の入口から、管理された共通玄関へ

前章までに述べた問題には、利便性の低下だけでなく、情報管理上の危険も存在する。

現在のインターネットにおける個人情報の管理は、一つの建物に何百もの入口があり、それぞれの入口に異なる管理者がいるようなものである。ある入口には頑丈な鍵があり、監視カメラも設置されている。しかし、別の入口では十分な管理が行われていないかもしれない。

しかも、利用者は、すべての入口が安全に管理されているかどうかを確認できない。問題は、入口が多いことだけではない。どこで問題が起きているのか、利用者自身には全体像が見えないことである。

情託は、個人情報の保管先と利用経路を整理し、専門機関がアクセスを管理・監視する仕組みを目指す。異常が発生した場合には、利用履歴やアクセス記録をもとに、問題の発生場所や影響範囲を調査しやすくする。

もちろん、共通玄関の管理が不十分であれば、かえって大きな問題が生じる。集約すれば自動的に安全になるわけではなく、高度な安全管理、被害の封じ込め、独立した監督が欠かせない。

情託が目指すのは、インターネットの自由な利用を制限することではない。個人情報を預ける場所を整理し、管理と責任の所在を明確にすることである。

4.個人情報を企業ごとに預けない商取引

情託が普及した社会では、消費者は自分が選んだ情託機関と契約する。情託機関は、本人の委託に基づき、さまざまな企業との契約関係、会員資格、ポイント残高、取引履歴などを管理する。

例えば、オンラインショップで商品を購入する場合を考える。現在は、販売企業が顧客の氏名、住所、連絡先、会員資格、ポイントなどを継続的に管理することが多い。情託の仕組みでは、販売企業が必要とする情報を、情託機関が取引ごとに提供する。

「この利用者は有料会員の資格を有している」
「この取引には250ポイントを利用できる」
「代金の決済について、本人の承認が得られている」

販売企業は、こうした条件に基づいてサービスを提供する。会員制度やポイントの条件は販売企業が定めるが、個々の利用者に関する情報や権利の管理は、情託機関が担う。

配送先など、取引の履行に必要な情報は、その目的に応じて提供される。ただし、取引のために情報を受け取ることと、顧客の恒久的な情報台帳を保有することは区別される。

販売企業が個人情報を大量に保有しなくても、商取引が成立する仕組みを目指す。ここに、単なるログイン代行や情報保管サービスとは異なる、情託の構想上の特徴がある。

5.利用者に対しては一元化、社会の仕組みとしては分業化

情託の設計において、最も重要な原則の一つがある。

「利用者に対しては一元化。社会の仕組みとしては分業化。」

利用者から見れば、さまざまな企業との取引を、一つの情託機関を通じて管理できることが望ましい。しかし、その利便性を実現するために、情託機関が金融、販売、物流、通信、行政などのあらゆる機能を取り込むべきではない。銀行は金融を、商店は商品やサービスの提供を、配送事業者は物流を担う。情託は、個人から委託された情報と取引上の権利を管理し、必要な仲介を行う。

情託は、一社による独占的な事業として構想するものでもない。利用者が信頼できる機関を選択できるよう、複数の情託機関が存在し、相互に競争することが望ましい。例えば、地域金融機関と連携した「伊豆信用情託」のような組織が考えられる。

地域の利用者は、顔の見える窓口で相談し、必要に応じて本人確認や情報の変更、利用資格の回復などの支援を受けることができる。一方、各情託機関が独自に大規模な情報通信基盤を構築する必要はない。

銀行間の共通決済ネットワークに着想を得て、情託機関同士を接続する全国的な共通基盤を整備する。これを仮に「全情託システム」と呼ぶ。各機関は共通規格によって連携しながら、それぞれの利用者との信頼関係を築く。

「信用は地域に、技術は共同基盤に。」

利用者にとっての窓口は簡潔に、社会全体の運営主体は複数に。専門性と責任の分担によって、小規模な情託機関でも高度な情報管理サービスを提供できる社会を目指す。

6.情託Key ― 情報を預けることと、利用することを分ける

情託を利用するための手段として、仮に「情託Key」と呼ぶ仕組みを考える。情託Keyは、情託機関に預けた情報や取引上の権利を利用するための鍵である。スマートフォンによる利用だけでなく、物理的なカードなどの手段も想定する。

重要なのは、情託Key自体に本人のすべての情報を持たせる必要はないという点である。鍵を紛失しても、情託機関に預けた契約関係や権利まで失われるわけではない。本人確認を経て、鍵を無効化し、再発行できる仕組みが望ましい。

情託Keyは、運転免許証やマイナンバーカードのような公的身分証明書を代替するものではない。情託が担うのは、本人の委託に基づく商取引上の情報管理である。公的な本人確認や行政上の個人識別とは、目的と役割を区別する。

具体的な認証方式や安全管理の水準については、今後の技術的・制度的な検討課題とする。

7.個人情報は、単なる商品ではない

情託の構想には、技術や経済合理性だけでは説明できない理念がある。それは、個人情報をどのような存在として扱うべきか、という問いである。

個人情報は、その人自身ではない。しかし、その人の生活、行動、選択、経験などを表す情報であり、「その人のある一面」でもある。したがって、単なる商品や経営資源と同じように扱ってよいとは限らない。

「個人情報は、人そのものではないが、人と切り離して扱ってよい物でもない。」

情託の「情」は、直接には「情報」の情である。同時に、この文字には「情け」や「人情」という意味もある。情託機関が預かるのは情報であって、人間の心そのものではない。それでも、その情報の向こう側には、一人の人間がいる。

情報を管理する技術がどれほど高度になっても、利用者の尊厳を尊重するという基本姿勢は変わらない。

8.情託は既存の商取引を禁止するものではない

情託は、従来の企業と消費者との直接的な関係を否定するものではない。消費者が特定の企業と直接契約し、その企業に個人情報を預けたいと考えるなら、その選択は尊重されるべきである。

「情託は、利用を強制しない。選ばれることで普及をめざす」

新しい社会制度が定着するには、長い時間が必要である。当初は、小規模な商店や地域の事業者など、個人情報管理の負担を軽減したい事業者から導入が始まるかもしれない。利用者が利便性を実感し、情託を通じた商取引を希望するようになれば、対応する企業も増えていく可能性がある。

一方、企業が顧客情報を保有することには、販売促進や顧客関係の維持など、経営上の利益がある。既存の企業が慎重になることは十分に考えられる。その利害を無視して制度を強制するのではなく、消費者にも企業にも利益をもたらすことを実証していく必要がある。

普及には10年、あるいはそれ以上の時間がかかるかもしれない。社会の仕組みを変えることは、一夜にして実現するものではない。

9.AI時代における新しい産業の可能性

人工知能の発展によって、金融機関をはじめとする多くの企業では、従来の事務作業や情報処理業務が変化していくと考えられる。その一方で、情報の正確な管理、本人との信頼関係、契約上の権利の保護など、新しい専門的な役割が求められる可能性がある。

金融機関で培われてきた本人確認、顧客対応、情報管理、内部統制などの経験は、情託機関においても活用できるだろう。銀行と情託は、役割を分担しながら連携することができる。

さらに、共通規格によって異なる情託機関が接続される仕組みが確立すれば、その制度は国境を越えて発展する可能性もある。日本で構想された新しい情報管理制度が、将来、世界の商取引に貢献する。それは現時点では一つの未来像にすぎないが、研究する価値のある可能性である。

10.おわりに ― 信用を預かる社会と研究のロマン

情託が実際に社会へ普及するかどうかは、まだ分からない。既存の商習慣、企業の利害、利用者の選択、法制度、技術的な制約など、多くの課題がある。当初の試みが失敗する可能性もある。

しかし、研究の価値は、直ちに成功することだけで決まるものではない。なぜ利用されなかったのか。どのような制度が不足していたのか。何が社会に受け入れられなかったのか。失敗から得られる知見は、次の研究や制度設計に生かすことができる。

ある時代には受け入れられなかった構想が、技術の進歩や社会の変化によって、後年あらためて評価されることもあり得る。重要なのは、構想を検証可能な形で提示し、その成果と課題を次の世代に残すことである。

目指しているのは、情報を一か所に集めること自体ではない。個人が自分の情報の扱われ方を選択でき、企業が必要以上に個人情報を保有せずとも商取引を行え、誰もが複雑な情報管理に煩わされず安心して暮らせる社会である。

「銀行はお金を預かる。情託は信用を預かる。」

情託は完成された制度ではない。これから議論を重ね、検証し、修正していくべき研究構想である。

研究には、ロマンがある。

自分の研究によって、まだ出会ったことのない誰かの暮らしが、少しでも良くなるかもしれない。そして、たとえ自分の時代に実現しなくても、その研究が次の世代の挑戦につながるかもしれない。その可能性こそが、情託構想の原動力なのである。

 

【註】

本稿は、あくまでも私の構想原案である。「情託」「Johtaku」「情託Key」「全情託システム」はいずれも仮称であり、名称の使用状況、法的な位置づけ、技術的実現性、事業性等については今後の検討を要する。

 

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【思想エッセイ・私論】出雲大社と日本人の切なさ―国譲り神話に見る受容と共生の構造

出雲大社と日本人の切なさ―国譲り神話に見る受容と共生の構造

 

本稿は、国譲り神話を歴史的事実として検証するものではなく、人間の受容と共生の構造を考察する一つの私論である。

 

古代出雲大社の復元想像図

かつて高さ48mに達したと伝えられる出雲大社本殿。本稿の3点の図は、その壮大な姿を、伝承や復元説を参考にAIで想像したもの。実際の建築形態を確定的に示すものではない。(画像制作:ChatGPT)

 

第一章 鎮魂―敗れた者の魂を祀るということ

 

日本の神社は、何のために存在するのだろうか。

豊作を祈り、家内安全を願い、病気の平癒を祈る。神社は、人々が神々に願いを託す場所である。しかし、日本の神社には、それだけでは説明できない、もう一つの側面がある。

それは、死者の魂を鎮めるという役割である。

哲学者の梅原猛は、『隠された十字架』などの著作において、日本の古代史を、勝者によって記された歴史としてだけでなく、敗者や非業の死を遂げた者たちの視点から読み直そうとした。

 

梅原の歴史観の特徴は、歴史の表舞台から消えた者たちの存在に目を向けるところにある。

権力をめぐる争いに敗れ、無念のうちに死んだ者たち。その魂が祟りをなすことを恐れ、手厚く祀ることで鎮めようとする。こうした怨霊信仰や御霊信仰は、日本の宗教文化を考えるうえで重要な要素である。

菅原道真を祀る天満宮や、崇徳上皇をめぐる信仰などには、その典型的な姿を見ることができる。

 

では、出雲大社はどうだろうか。

出雲大社に祭られる大国主命は、「古事記」や「日本書紀」において、地上の国を治めた神として描かれている。

大国主命は、国づくりを進めた後、天照大御神の側から求められた国譲りに応じる。そして、地上の統治権を譲る代わりに、自らを祀る壮大な宮殿の造営を求める。

 

この物語を、単なる平和的な政権交代の物語として読むこともできる。

しかし、少し視点を変えてみたい。

もし、国譲りが、実際には大きな政治的対立や勢力交代の記憶を反映した物語であったとしたら、どうだろうか。

そこには、国を治めていた側と、新たに支配しようとする側との間に、何らかの葛藤が存在したのではないか。

そして、もし大国主命が、歴史の中で権力を失った勢力の象徴であったとしたら、その神を壮大な社殿に祀るという行為には、どのような意味があったのだろうか。

梅原の鎮魂史観は、こうした問いを考えるための一つの手がかりになる。

 

もっとも、大国主命が実在の統治者であったことや、非業の死を遂げたことが史実として確認されているわけではない。また、出雲大社が敗者の怨霊を鎮めるために創建されたと断定できるわけでもない。

 

ここで考えたいのは、史実の確定ではなく、神話と信仰の背後に存在するかもしれない、人間の心の構造である。

 

人は、争いに勝てば、それですべてが終わるのだろうか。

勝者には勝者の正義がある。しかし、敗者にもまた、守ろうとしたものがあり、愛した人々があり、叶えられなかった願いがあったはずである。

 

政治的な勝敗によって、敗れた者の人生や思いまで消し去ることはできない。

むしろ、勝者が敗者を祀るという行為には、相手の存在を完全には否定できないという、人間の深い心理が表れているようにも思える。

 

敵として排除した存在を、神として祀る。

そこには、恐怖や畏敬だけでなく、相手の存在を認め、何らかの関係を保ち続けようとする心があるのではないだろうか。

 

鎮魂とは、単に死者を静かに眠らせることではない。

生きている者が、死者とどのように関わっていくのか、という問題でもある。

この視点から出雲大社を眺めると、大国主命を祀る壮大な社殿は、勝者の権威を示す建造物とは異なる意味を感じ取ることができる。

 

それは、国を譲った者の存在を、後世にわたって忘れないための場所だったのではないか。もちろん、これは一つの解釈である。

しかし、歴史を勝者の記録としてだけでなく、敗者の無念や願いを含む人間の営みとして読み直すとき、出雲大社に込められた別の役割があるのではないのか。

 

国を譲った大国主命は、何を思ったのだろうか。

そして、その二人の御子は、父の決断をどのように受け止めたのだろうか。

次章では、国譲り神話を、単なる勝敗の物語ではなく、守るべきもののために何かを手放すという、人間の選択の物語として読み直してみたい。

 

第二章 国譲り―守るために手放すという選択

 

国を譲るとは、どういうことだろうか。

自ら築き上げた国を、他者に明け渡す。そこには、単なる領土や権力の移譲では説明できない、人間の深い葛藤があるのではないだろうか。

 

『古事記』の国譲り神話では、葦原中国を治める大国主命のもとに、高天原から使者が遣わされる。天照大御神の子孫が地上を治めるべきであるとして、国を譲るよう求めるのである。

 

大国主命は、その場で直ちに承諾するのではなく、御子たちの意向を尋ねる。

まず登場するのが、事代主神である。

事代主神は、国譲りを承諾した後、船を踏み傾け、身を隠したと伝えられている。この行動は、どのように解釈すればよいのだろうか。

国譲りに同意したのだから、喜んで新たな支配者を迎え入れたのだろうか。しかし、そう考えると、その直後に姿を隠すという行為には、どこか説明しきれないものが残る。

私は、この姿に、静かな抗議の可能性を感じる。

 

戦うことをしない。父の決断にも逆らわない。しかし、新たな支配秩序に積極的に加わることも選ばない。それは、受容であると同時に、失われるものへの惜別の表現だったのではないだろうか。

 

一方、もう一人の御子、建御名方神は、異なる行動を取る。

建御名方神は、国譲りを求める建御雷神に力比べを挑む。しかし敗北し、科野国の州羽海、現在の諏訪湖に結びつけられる地まで追い詰められる。そして、そこから出ないことなどを約束し、服従する。事代主神が争いを避けたのに対し、建御名方神は抵抗を試みたのである。

 

しかし、両者の行動は、必ずしも正反対ではないのかもしれない。

事代主神は、戦わずして姿を消した。建御名方神は、戦った末に退いた。

方法は異なっていても、どちらも、それまでの国のあり方を失うという現実に直面していた。

 

ここで、大国主命の立場に戻ってみたい。

もし、大国主命が民衆の支持を受けながら国を治め、人々の暮らしを守ってきた統治者だったとしたら、どうだろうか。

 

もちろん、これは神話から想像を広げた仮説であり、歴史的に確認された事実ではない。

しかし、そのように考えると、国譲りは単なる敗北とは違った意味があるのではないか。

国を守るために戦えば、多くの民衆が犠牲になるかもしれない。たとえ勝利の可能性が残されていたとしても、戦いによって田畑が荒れ、家族が離散し、長年築いてきた暮らしが失われることもある。

 

では、国を守るとは、何を守ることなのだろうか。

領土なのか。統治者の権威なのか。それとも、そこで暮らす人々の命と生活なのか。

もし大国主命が、民衆を守るために国譲りを決意したのだとすれば、それは権力への執着を超えた、一つの主体的な選択だったと考えることができる。

 

だが、その選択によって、惜しむ心まで消えるわけではない。

自ら築いた国がある。共に生きてきた人々がいる。守り続けたいと願った世界がある。

それらを愛しているからこそ、戦いを避ける。そして、愛しているからこそ、手放すことが切ない。

 

ここに、国譲り神話のもう一つの読み方が生まれる。

事代主神の沈黙、建御名方神の抵抗、そして大国主命の決断。

 

三者の行動は異なる。しかし、その根底には、失いたくないものを前にした、それぞれの心の揺れがあったのではないだろうか。

 

私は、この物語を、勝者と敗者の物語としてだけではなく、守るべきものをめぐる三つの選択の物語として読みたい。

 

そして、ここには重要な区別がある。

受容とは、必ずしも諦めではない。

自分の置かれた状況を理解し、何を最も大切にすべきかを考えた末に、あえて手放すという選択もある。

 

その選択が正しかったと理解していても、失われたものを惜しむ心は残る。

人は、理解したからといって、願いを消し去ることはできないのである。

大国主命は、国譲りの後、自らを祀る壮大な宮殿を求める。

それを単なる褒賞と見るのではなく、国を譲った者の存在と、それまで築いてきた世界の記憶を残すための願いとして読むことはできないだろうか。

 

国を譲っても、その国を生きた者たちの歴史まで消えるわけではない。

そして、出雲大社に祀られる大国主命の姿は、失われたものを忘れず、それでも新しい世界を受け入れようとする、人間の心のあり方を象徴しているように思える。

 

この物語に感じる切なさは、敗北そのものから生まれるのではない。守りたいものがあるからこそ、手放すことを選ばなければならない。

その矛盾を抱えながら生きることに、人間の深い悲しみと尊厳があるのではないだろうか。

 

第三章 国譲り神話と「和」の精神

 

ここで、もう一つの仮説を提示したい。

大国主命が、民衆に支持され、その生活を守ることを第一に考える善良な統治者であったとしたら、その国譲りの物語は、後世の日本人にとって、一つの精神的な模範となったのではないだろうか。

 

自らの正当性を主張し、最後まで戦い抜くことだけが、統治者の責任ではない。ときには、自らの権力や利益を手放してでも、争いを収め、人々の暮らしを守るという選択がある。

このような解釈に立つならば、国譲り神話には、後世に「和」と呼ばれる価値観と通じる構造を見いだすことができる。

 

ただし、和とは、単に争いを避けることでも、強い者に従うことでもない。

異なる立場や利害を持つ者同士が、相手の存在を認め、共に生きるための関係を模索すること。その過程では、ときに自らの願いを抑え、何かを手放さなければならないこともある。

国譲り神話が実際に日本の和の精神の起源となったかどうかは、容易に確かめられるものではない。

しかし、この物語が、対立の中で何を守るべきかという問いを含んでいることは確かである。

 

私は、国譲り神話を、後世の日本人が大切にしてきた「和」の精神を考えるための、一つの象徴的な物語として読みたい。

そして、その和が、自らの願いを手放すという選択の上に成立するのであれば、そこには必然的に、ある種の切なさが伴うのではないだろうか。

 

第四章 自然との共生―支配できない世界を愛するということ

 

日本列島は、自然の恵みと脅威が隣り合わせに存在する土地である。

豊かな森林があり、清らかな水が流れ、四季折々の風景が広がる。海は多くの生命を育み、山々は人々の暮らしを支えてきた。

 

しかし、その同じ自然が、ときとして人間の生活を根底から覆す。

地震、津波、台風、豪雨、火山の噴火。日本列島に暮らす人々は、長い歴史の中で、繰り返し自然災害に直面してきた。

どれほど豊かな土地を耕しても、一度の洪水ですべてを失うことがある。何代にもわたって築いた家や集落が、地震や津波によって失われることもある。

人間は、自然から多くの恵みを受けながら、その自然を完全に制御することはできないのである。

 

ここで、一つの問いが生まれる。

人間は、自分たちの力では支配できない存在と、どのような関係を築くことができるのだろうか。

日本の伝統的な信仰には、山や川、海、岩、樹木など、自然のさまざまなものに神聖な存在を見いだす考え方がある。いわゆる八百万の神々という世界観である。

そこでは、自然は単なる資源でも、人間の意のままに操作できる対象でもない。

恵みをもたらす一方で、ときには恐ろしい力を示す存在として、畏敬の対象にもなってきた。

もちろん、日本人が常に自然と調和して暮らしてきたわけではない。森林を伐採し、河川を改修し、海を埋め立て、自然を人間の都合に合わせて変えてきた歴史もある。

それでも、自然を完全に支配することはできないという認識が、信仰や生活文化の中に繰り返し表れてきたことは、注目に値する。

 

自然は、人間の願いどおりには動かない。それでも、人間は自然を拒絶して生きることはできない。

山から水を得て、田畑を耕し、海から魚を得る。春の訪れを喜び、秋の実りに感謝する。

自然の脅威を知りながら、自然の恵みを味わい続けるのである。

ここに、単なる服従とも支配とも異なる、第三の関係があるのではないだろうか。

それが、共生である。

 

共生とは、相手のすべてを受け入れて無抵抗になることではない。

堤防を築き、耐震技術を発達させ、災害の予測や避難の仕組みを整えることも、自然と共に生きるための努力である。

 

重要なのは、人間がどれほど技術を発達させても、自然のすべてを思い通りにできるわけではないという限界を理解することである。

そして、その限界を理解したうえで、なお自然との関係を保ち続けようとする。

私は、ここに国譲り神話と共通する構造を感じる。

 

大国主命が、民衆を守るために国を譲るという選択をしたのだとすれば、それは、自らの望みを貫くことよりも、守るべき人々との関係を優先した決断だったと解釈できる。

同じように、人間は自然を完全に支配したいと願っても、それが不可能である現実に直面する。

そこで人間は、自然を敵として拒絶し続けるのか。それとも、自然の力を理解し、その中で生きる方法を探すのか。

 

両者は同じ出来事ではない。国譲りは人間社会の権力をめぐる神話であり、自然災害は人間の意思とは無関係に生じる現象である。

しかし、制御できない現実に直面したとき、何を守り、何を手放し、どのような関係を続けるのかという問いには、共通するものがある。

 

そして、ここに「切なさ」という感情が現れる。

人は、自然災害によって失われた家や故郷を、簡単に忘れることはできない。

危険な場所を離れることが合理的だと理解していても、そこに暮らし続けたかったという願いは残る。

新しい土地で生活を始め、未来に向かって歩み出したとしても、失われた風景や人々への思いが消えるわけではない。

理解して受け入れることと、失われたものを惜しむことは、矛盾しないのである。

この感情は、日本人だけに存在するものではない。世界のどこに暮らす人々にも、喪失を惜しみながら現実を受け入れる心はあるだろう。

 

しかし、自然の恵みと脅威が繰り返し交錯する日本列島の環境は、そうした感情を育み、表現する文化の一つの背景となったのではないだろうか。

日本人が桜の散る姿に美しさを感じ、移りゆく季節に心を動かされることも、失われるものを惜しみながら、その一瞬を味わう感性と無関係ではないように思える。

 

自然は、人間の願いをすべて叶えてくれる存在ではない。それでも、人間は自然を愛し、その恵みに感謝し、その中で生き続ける。支配できないからといって、関係を断ち切るわけではない。むしろ、支配できないことを理解したうえで、関係を築き続けるのである。

私は、この姿勢の中に、日本人の精神文化を読み解く一つの手がかりがあると考える。

 

そして、国譲り神話に感じる切なさと、自然と共に生きる人々の切なさは、ここで一つにつながる。

世界は、自分の思いどおりにはならない。それでも、人は世界との関係を求め続ける。

その関係を断ち切らずに生きることこそ、共生の原点なのではないだろうか。

 

第五章 切なさ―理解と願いのあいだに

 

人間は、理解することによって、すべてを受け入れられるのだろうか。

 

現実を正しく認識し、最善と思われる選択をしたとしても、その選択によって失われるものへの思いが、必ずしも消えるわけではない。

 

理性は、ある決断が必要であることを理解する。しかし、感情は、その決断によって叶わなくなる願いを惜しむ。

私は、この理性と感情の間に生じる心の揺れを、「切なさ」と呼びたい。

 

人は、叶わなかった願いを抱えて生きる。理解によって手放した願いであっても、その願いを惜しむ心は残る。その心の揺れを、私たちは「切なさ」と呼ぶのではないだろうか。

 

ここで重要なのは、切なさが、理解の不足によって生じる感情ではないということである。むしろ、十分に理解しているからこそ、切なさが生まれる場合がある。

 

国譲り神話を、民衆を守るために統治権を手放した物語として読むならば、大国主命の決断は、その一例となる。

国を守るために戦うことと、国に暮らす人々を守ること。その二つが両立しないとき、何を選ぶべきなのか。

民衆の命を守るために国を譲ることが必要だと理解したとしても、自ら築き、人々と共に生きてきた国への愛着まで失われるわけではない。

 

事代主神の沈黙と建御名方神の抵抗もまた、失われゆく世界に対する異なる応答として読むことができる。

この解釈において、国譲りは単なる服従ではない。現実を理解し、守るべきものを選び取る行為なのである。

 

ここで注目したいのは、苦痛に耐えること自体を美徳とする考え方ではない。

何のために耐えるのか。何を守るために、何を手放すのか。

その選択の目的と、選択する主体の存在こそが重要なのである。

 

自然との共生についても、同じことがいえる。

日本列島に暮らす人々は、自然の恵みを享受する一方で、地震や津波、台風などの災害に繰り返し直面してきた。

人間は自然を理解し、その脅威を予測し、被害を軽減するために努力する。しかし、自然を完全に支配することはできない。

 

危険な土地から離れることが合理的であっても、故郷を惜しむ心は残る。新しい生活を選択しても、失われた風景や人々への思いが消えるわけではない。

ここにも、理解と願いの間に生じる切なさがある。

 

では、こうした切なさは、なぜ人間の心に生まれるのだろうか。

私は、その根底に、生命が世界との関係を求めるという性質があると考える。

 

人間は、世界から切り離された存在ではない。

自然から恵みを受け、他者と関わり、社会の中で役割を担い、さまざまな存在との関係を通して生きている。

私たちは世界を認識し、理解し、味わう。同時に、他者から認識され、働きかけられ、世界の一部として受け止められる。

 

生命は、世界を味わい、世界から味わわれているのである。この相互の関係は、必ずしも人間の思いどおりにはならない。

他者の意思を支配することはできず、自然の営みを完全に制御することもできない。時間の流れを止めることも、失われた過去を取り戻すこともできない。それでも、人間は世界との関係を求め続ける。

 

切なさとは、その関係を大切にする生命が、避けることのできない限界に直面したときに生じる感情の一つではないだろうか。

それは、単なる悲しみではない。悲しみが喪失そのものに向けられるとすれば、ここでいう切なさは、喪失を理解しながらも、なお関係を願う心に生まれる。

 

そして、この感情は、決して日本人だけのものではない。

しかし、自然の恵みと脅威が交錯する日本列島において、人々が八百万の神々を祀り、移ろう季節を愛で、失われゆくものに美を見いだしてきた文化には、こうした心の働きが一つの特徴として表れているように思える。

 

出雲大社に祀られる大国主命の姿もまた、その文脈で読み直すことができる。

国を譲ることによって、統治者としての役割は終わる。しかし、神として祀られることによって、その存在は人々の記憶と信仰の中に受け継がれる。

そこには、政治的な支配関係とは異なる、新たな関係が生まれている。

 

鎮魂とは、失われた存在との関係を引き受けることであり、国譲りとは、守るべきもののために自らの願いを手放すことであり、共生とは、支配できない存在との関係を保ち続けることである。

 

これらに共通するのは、世界を自らの意思に従わせることではなく、世界の現実を理解したうえで、なお関係を結ぼうとする姿勢である。

 

人間は、すべてを得ることはできない。

また、得たものを永遠に保ち続けることもできない。

しかし、その限界を知ることは、世界を味わう喜びを否定するものではない。

むしろ、限りがあるからこそ、今ここに存在するものの価値を知ることができる。

切なさとは、理解と願いの間に生じる心の揺れであり、世界との関係を求め続ける生命の、一つの表現なのである。

そして、世界を完全に支配することができなくても、世界と共に生きることはできる。

そこに、共生という営みの本質があるのではないだろうか。

 

【註】

本稿は、『古事記』『日本書紀』に伝えられる国譲り神話を基礎とし、梅原猛の鎮魂史観などを参照しながら、受容と共生の構造を考察したものである。神話に描かれた出来事をそのまま史実とみなすものではなく、登場する神々の心理や選択についての解釈は、筆者独自の仮説である。

 

【参考文献】

『古事記』倉野憲司校注、岩波文庫、1963年

『日本書紀(一)』坂本太郎ほか校注、岩波文庫

『出雲国風土記』荻原千鶴全訳注、講談社学術文庫、1999年  

梅原猛『隠された十字架―法隆寺論―』新潮社、1972年

梅原猛『葬られた王朝―古代出雲の謎を解く―』新潮社、2010年

露木良治『コミュ障の歯科医が世界を見たらこう見えた―心のダイヤモンドISD―』幻冬舎、2026年

                                                                                          2026年 神無月の17日に記す。

                            (画像制作:ChatGPT)

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【味わう構造仮説 】―「味わいたい」は価値の源泉:社会価値観ダイヤモンド(SVD)の提唱―

味わう構造仮説 ―「味わいたい」は価値の源泉:社会価値観ダイヤモンド(SVD)の提唱―

 

1.味わう構造仮説の視点から価値を再考する

 

 「味わう構造仮説」(Tasting–Savoring–Understanding Hypothesis(TSU))とは、人間の営みを「味わう」という視点から捉える仮説である。人は五感などから情報を受け取り、情動を生じ、それを理解しながら世界を味わっている。そして人間の行動の根底には、「味わいたい」「味わいたくない」という方向性があると考える。

価値とは何だろうか。私は、その出発点を「味わいたい」と考えている。美しいものを見たい、おいしいものを食べたい、好きな音楽を聴きたい。対象そのものに絶対的な価値があるのではなく、「私はこれを味わいたい」という主体との関係によって価値が生まれる。

 そして、「味わいたい」に希少性が加わると、価値は増大する。

 たとえばダイヤモンドが、現在と同じ輝きや美しさを持ちながら、道端の石ほど大量に存在していたらどうだろう。美しさは変わらなくても、その価値は大きく変わるはずだ。 



一方、世界に一つしかない石でも、誰も欲しいと思わなければ高い価値は生まれない。

 つまり、希少性そのものが価値なのではない。希少性とは「味わいたい」を増幅する装置なのである。

 ところが現代社会には、「価値がある」と主張するものがあふれている。ブランド、資格、肩書、ランキング、レビュー、フォロワー数、「限定」「厳選」「プレミアム」。本来は私たちが対象を味わい、そこに価値を見いだすはずだった。それが逆転し、対象の側から「これは価値があるから味わいなさい」と迫られている。

 現代人は価値を失ったのではない。むしろ、価値主張の過剰によって「価値疲れ」を起こしているのではないだろうか。

だからこそ、まず「これは価値があるのか」ではなく、「私は、これを味わいたいのか」と問い直す必要がある。

 しかし、人間は一人では生きていない。自分が味わいたいものと、他者が味わいたいものは異なる。そこで私は、社会の価値構造をSocial Value Diamond(SVD:社会価値観ダイヤモンド)として考えた。

 SVDでは「同質性―多様性」と「価値感喪失―共通価値観」という二つの軸を置く。同じ価値を強制すれば個人が失われ、多様性だけを追求して共通価値を失えば社会は分断する。

 目指すのは、そのどちらでもない。「私は、これを味わいたい。」「あなたが味わいたいものも、私は尊重する。」

 異なる価値を認めながら、それでも共有できる価値を見いだす。その先に、SVDが示す「共生社会」がある。

 

2.社会は「同じ」であれば安定するのか―SVDが示す四つの社会

 

社会が安定するためには、人々は同じ価値観を持ったほうがよいのだろうか。それとも、多様な価値観を認めたほうがよいのだろうか。

この問題を考えるために、私は「Social Value Diamond(SVD:社会価値観ダイヤモンド)」という図を考えた。

 

SVDには二つの軸がある。横軸は「同質性―多様性」であり、価値観や生き方の幅を表す。縦軸は「共通価値観―価値感喪失」であり、人々の間に意味やつながりがどれだけ共有されているかを表している。

 この二つを組み合わせると、社会の姿は四つに分けて考えることができる。

 

(1)同質性と共通価値観―「同質社会」

 

社会の同質性が強く、なおかつ共通の価値観が存在すると、人々は同じ方向を向きやすい。

 家族、地域、国家などの価値観が共有され、「何が大切なのか」「どのように生きるべきなのか」について一定の共通認識がある。そのため、社会には安定、安心、秩序が生まれやすい。共通の価値観が強ければ、人々の間に一体感も生まれやすい。

 一方で、この社会には弱点もある。

 共通価値観があまりに強くなれば、「みんなと同じであること」が求められ、個性や多様性が抑圧されやすい。安定している反面、変化に弱い社会にもなり得る。

 

(2)同質性が強いまま価値観を失う――「停滞社会」

 

さらに問題なのは、同質性を保ったまま、社会を支えていた共通価値観だけが失われた場合である。

 人々は変化を望まず、現状維持を求める。しかし、「なぜそれを守るのか」「何のために社会を維持するのか」という意味が共有されていない。

 すると、社会には無気力や閉塞感が広がる。

 挑戦や多様性を避ける一方で、進むべき方向も見えない。変化や成長が起こりにくくなり、「どうせ変わらない」「仕方がない」という諦めが社会を覆う。

 SVDでは、この状態を「停滞社会」と考える。

 

つまり、同質性は共通価値観と結びつけば安定を生むが、価値観を失えば停滞を生むのである。

 

(3)多様性と共通価値観―「共生社会」

 

では、多様性を重視する社会はどうだろう。

 人々がそれぞれ異なる生き方や考え方を持つことは、創造性やイノベーションを生みやすい。異なる経験や視点が出会うことで、それまでになかった発想も生まれる。

 しかし、多様性だけで社会が成立するわけではない。

 異なる人々が共に生きるためには、「違っていても、ここだけは共有する」という基盤が必要になる。

 それは、全員が同じ価値観を持つことではない。

 むしろ、「互いの価値観を尊重する」という価値観を共有することである。

 違いを尊重しつつ、社会としての共通目的を持つ。多様性と共通価値観が両立したとき、創造性と協調性も両立する。

 SVDでは、これを「共生社会」と位置づけている。

 

(4)多様性から共通価値観が失われる―「分断社会」

 

しかし、多様性を重視する社会から共通価値観が失われたらどうなるだろう。

 「人それぞれだから」で、すべてを終わらせてしまう社会である。

 価値観は多様でも、それらをつなぐ共有基盤がない。すると「違い」は次第に「対立」へ変わっていく。

 SNSや情報環境によって人々が自分と似た価値観を持つ集団だけに集まれば、社会内部の分断はさらに加速する。異なる価値観を持つ相手を理解するのではなく、恐れ、敵視し、排除するようになる。

 その先にあるのが、対立、孤立、不信である。

 社会をつなぐものが失われれば、社会そのものの持続性も危うくなる。

 つまり、多様性は共通価値観と結びつけば共生を生むが、共通価値観を失えば分断を生むのである。

 

(5)問題は「同質性か、多様性か」ではない

 

ここからSVDが示している重要なことが見えてくる。

 社会の問題を、「同質性がよいのか、多様性がよいのか」という二者択一だけで考えることはできない。

同質社会にも安定や安心という利点がある。一方、多様な社会には創造性や革新を生み出す力がある。そして、どちらも共通価値観を失えば、停滞あるいは分断へ向かう可能性がある。

したがって、重要なのは横軸だけではない。

 社会を支える鍵は、縦軸にある。

 多様性を進めれば自動的に良い社会になるわけでも、昔の同質的な社会へ戻れば問題が解決するわけでもない。

 目指すべきなのは、多様な生き方を認めながら、それでも人々をつなぐ共通価値観を持つ社会ではないだろうか。

 

その共通価値観とは、「全員が同じものを大切にすること」である必要はない。

 むしろ、「私はこれを大切にしたい。あなたが大切にしたいものも尊重する。」という姿勢そのものを共有することである。

 違いをなくすのではなく、違いを尊重することを共有する。

 SVDが右上に置く「共生社会」とは、そのような社会なのである。

 

2026年8月15日

2026 Dental Office Minato All Rights Reserved.

【2026年 夏季休診のお知らせ】

【2026年 夏季休診のお知らせ】
ご不便をおかけしますが、8月11日(火)~8月16日(日)まで休診いたします。
8月17日(火)より、通常の診療いたします。
何卒、よろしくお願いいたします。

【日常】36年前のご厚情

拙著『コミュ障の歯科医が世界を見たらこう見えた』の21ページに、私が転職を考えるきっかけになった日のことを書きました。
36年前、私は金融機関に勤めていました。
ある夏の日、契約が取れずに困っていた私の事情を察してくださり、10万円の定期預金を作ってくださった取引先がありました。
それから6年後、国家試験に合格した時に報告に伺いました。
ご主人は、私が歯科医師になったことを喜んでくださいました。
先日、30年ぶりに本をお渡しするために訪問しました。
ご主人はしばらく前にお亡くなりになっていましたが、奥様はご健在でした。
「そんなことがあったかしら?」
奥様は微笑んでおっしゃいました。
本をお渡しして、あらためて、あの日のお礼を伝えることができました。
あの日のご厚意に、感謝申し上げます。ありがとうございます。
 
※この話を小説にしたものです。
https://dentalofficeminato.hatenablog.com/entry/2025/08/09/085148

イラストは、その取引先をモデルにした「喫茶 鴎」です。
 

 

 


【歯科診療】歯磨剤をフッ化物局所応用剤として扱うことについて― 歯磨き後の「吐き出さない/すすがない」指導に関する私見 ―

歯磨剤をフッ化物局所応用剤として扱うことについて
― 歯磨き後の「吐き出さない/すすがない」指導に関する私見 ―

2026年7月15日
露木 良治

本稿は、あくまでも個人的な問題提起である。


1.問題の所在


 近年、歯磨き後の口腔内フッ化物濃度を維持する目的から、「歯磨剤を吐き出さない」「歯磨き後にすすがない」といった表現を耳にすることがある。しかし、この二つは同義ではない。
 余分な歯磨剤を吐き出した後に水ですすがない、あるいは少量の水で1回だけ洗口する方法には、フッ化物を口腔内に残留させるという一定の合理性がある。一方、歯磨剤や唾液をほとんど吐き出さず、そのまま保持し、結果として嚥下することまで推奨するのであれば、別の検討が必要である。

 本件を考えるに当たり、論点を以下の4点に整理する。

•    歯磨剤は、フッ化物局所応用に特化した製剤なのか。
•    歯磨剤に含まれるラウリル硫酸ナトリウム(SLS)等の成分には、どのような為害性が考えられるのか。
•    合成界面活性剤は、低濃度であれば口腔内に残留させても問題がないといえるのか。
•    そもそも歯磨剤は、日常的に飲み込むことを前提として設計された製品なのか。

2.歯磨剤はフッ化物局所応用に特化した製剤ではない

 歯磨剤は、フッ化物を歯面に作用させることだけを目的とした製剤ではない。一般的な歯磨剤は、清掃・研磨、発泡・分散、湿潤性やペースト性の維持、香味・清涼感の付与に加え、う蝕、歯肉炎、歯周炎、知覚過敏、歯石、着色、口臭等への対応を目的とした複合製剤である。
 厚生労働省の「薬用歯みがき類製造販売承認基準」においても、薬用歯磨剤に認められる効能は、う蝕予防だけに限定されていない。したがって、通常の歯磨剤全体を、フッ化物塗布剤またはフッ化物局所応用剤と同一に扱うことは、製剤設計上も制度上も慎重であるべきだと考える。
 歯磨剤中のフッ化物だけに着目すれば、歯磨き後の残留量を高めることには意義がある。しかし、フッ化物を残留させることと、界面活性剤、研磨剤、香料、甘味料、保湿剤その他の成分を含む歯磨剤全体を口腔内に残すことは、同じ問題ではない。

3.SLS等の界面活性剤の為害性をどう考えるか

(1)発がん性・催奇形性について
 現時点で、通常の歯磨剤使用によりSLSが発がん性または催奇形性を示すという確立した根拠は確認されていない。したがって、SLSを直ちに「発がん物質」とみなすことは適切ではない。
ただし、発がん性が確認されていないことと、あらゆる使用方法において無条件に無害 であることは同義ではない。本件では、発がん性の有無だけでなく、口腔粘膜への局所刺激、接触時間、使用頻度、個人差を含めて検討する必要がある。
(2)口腔粘膜への局所作用について
 SLSを含む歯磨剤については、口腔粘膜の刺激、剝離、炎症、灼熱感、潰瘍性病変への影響等が報告されている。すべての使用者に症状が生じるわけではないが、口内炎を反復する者、口腔乾燥のある者、粘膜が脆弱な者、口腔粘膜疾患を有する者では、SLSを含まない、または低刺激性の歯磨剤を選択する臨床的意義があると考えられる。
 また、「合成界面活性剤」を一括して評価することも適切ではない。SLS、ラウレス硫酸ナトリウム、コカミドプロピルベタイン等では、化学構造、刺激性、代謝、アレルギー性が異なるため、個々の成分と製品濃度に基づいて検討すべきである。

4.「低濃度であること」と「残留・嚥下してよいこと」は同義ではない

 SLSについて、「合成物であるため分解されず、体内に永久に蓄積する」と理解することは適切ではない。一方で、代謝・排泄される物質であることを理由に、歯磨き後に口腔内へ積極的に残留させ、反復して嚥下しても問題がないと結論づけることもできない。
 物質の為害性は、単に濃度だけで決まるものではなく、一回量、接触時間、使用頻度、吸収率、代謝速度、排泄、年齢、嚥下機能、口腔粘膜の状態、個人の感受性等によって異なる。SLSの場合には、全身への蓄積毒性よりも、口腔粘膜への反復接触と局所刺激が、日常臨床上より現実的な論点である。
 したがって、「低濃度だから無害」「合成だから体内に残る」「天然だから安全」といった単純な二分法は避ける必要がある。

5.歯磨剤は飲み込むために作られた製品ではない

 歯磨剤は口腔内で使用する製品ではあるが、食品ではなく、日常的に飲み込むことを目的とした内服製剤でもない。日本では、製品により化粧品または医薬部外品として扱われる。薬用歯磨剤が医薬部外品であることは、有効成分と一定の効能を有することを意味するが、食品または内服医薬品と同列に扱ってよいことを意味しない。
 ここで区別すべきなのは、「通常の使用中に微量を偶発的に飲み込んでも直ちに重大な健康被害が生じないよう配慮されていること」と、「毎日、意図的かつ反復して飲み込むことを前提に作られていること」である。両者は明確に異なる。
 特に、嚥下量の調節が難しい幼児、高齢者、嚥下機能が低下した者については、成人一般と同じ表現で指導することには慎重さが必要である。

6.私見としての整理

A.余分な歯磨剤を十分に吐き出し、その後に大量の水ですすがない
 この方法は、歯磨き後のフッ化物濃度を維持するという点で、一定の合理性がある。英国NHS等が示す「余分な歯磨剤を吐き出し、直後に水ですすがない」という指導も、この考え方に基づくものである。

B.歯磨剤や唾液をほとんど吐き出さず、そのまま保持・嚥下する
 この方法を一般的な歯磨き指導として推奨することには賛同できない。口腔内に残るのはフッ化物だけではなく、界面活性剤、研磨剤、香料、甘味料、保湿剤、その他の薬効成分、さらにブラッシングによって剝離したプラークや食物残渣等も含まれるためである。

C.フッ化物の局所効果を特に重視する場合
 フッ化物の局所効果を主目的とするのであれば、低発泡・低刺激性のフッ化物配合歯磨剤、SLSを含まない製品、フッ化物洗口剤、専用のフッ化物ジェル等、目的に適した製剤と使用方法を選択する方が、理論的にも臨床的にも明確である。

7.結論
 

 以上から、私見としては、次のように表現するのが最も妥当である。
 「歯磨剤は余分な分を吐き出す。フッ化物まで完全に洗い流さないため、歯磨き直後の洗口は控えるか、少量の水で最小限にする。」
 すなわち、「すすがない」という指導には一定の合理性があり得るが、「吐き出さない」ことまで同じ意味で推奨するのは適切ではない。
 複合清掃製剤である歯磨剤を、フッ化物だけに着目して「家庭用のフッ化物塗布剤」のように扱うことには、論理の飛躍がある。歯磨き指導では、製剤全体の性質、対象者の年齢・嚥下機能・粘膜の状態、製品表示を踏まえ、「余分な歯磨剤を吐き出すこと」と「水ですすぎ過ぎないこと」を明確に区別して伝える必要があると考える。

参考資料
1.    厚生労働省.薬用歯みがき類製造販売承認基準について.令和3年6月28日.
2.    NHS. How to keep your teeth clean. “After brushing, spit out any excess toothpaste. Don’t rinse your mouth immediately after brushing.”
3.    Kasi SR, et al. Side effects of sodium lauryl sulfate applied in toothpastes: A scoping review. 2022.
4.    Herlofson BB, Barkvoll P. Oral mucosal desquamation caused by two toothpaste detergents in an experimental model. Eur J Oral Sci. 1996.