デンタルオフィスみなと 公式ブログ

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【小説】子猫

【小説】      子猫

 1989年の暮れ、僕は自分の部屋で歯科大学の入学願書の書類を書いていた。学生時代から使っている机の上には、昨日から菓子箱が置いてある。その中には子猫がうずくまっていて、肩で息をしている。箱の中を見ると、小皿に入れておいた牛乳が減っていない様子に僕は心配になった。僕の部屋には電気ストーブしかないので、子猫が少し肌寒いかもしれないと思った僕は、机の上から菓子箱を床に降ろし、電気ストーブの前に置いた。
 昨日は冷たい雨が降った一日だった。上土信用金庫狩野川支店は道路に沿って駐車場がある。外回りから帰ってきた僕を出迎えたのは、内勤の女子職員3人だった。雨がっぱを脱ぎ、雨に濡れた手をタオルで拭いていた僕に、タオルで包まれた子猫が差し出された。
 「杉名さんは猫が好きですよね。この子、支店の前に捨てられて鳴いていたのをお客さんが教えてくれて、私が拾ってきたの。私たちで相談したんだけど、猫好きな杉名さんが飼ってあげるのが一番いいと思って」

 駐車場の端に子猫が捨てられていたとのことである。
 「えっ、僕は猫が好きだけど、猫の世話をしてあげられる余裕はないよ」と答えた。僕は今月の頭に退職届けを支店長に提出してみたものの、退職後の進路はまだ決まっておらず、不安でいっぱいだった。「また一人暮らしをするかもしれない。そうなると、猫を飼うことはできないだろう」と僕は思った。
 目の前では、白くて小さな子猫が雨に濡れて震えていた。風邪をひいているのだろうか。看病して子猫が元気になったら、誰か引き取り手を探そうと思った。
 「飼えるかどうか分からないけど、風邪をひいて弱っているようだから、元気になるまで僕が面倒をみましょう」と僕は答えて、タオルに包まれた子猫を受け取った。

 先週、仕事中に母校の高校に入学願書に添付する調査書を取りに行った。スーツを着て、オートバイに乗って訪れた母校には、さすがに知っている先生はいなかった。事務の女性の方から、調査書を受け取り、「あらためて受験するのですか?頑張ってくださいね。合格したら、ご連絡をお待ちしています。大学合格者一覧に掲載しますので」と言ってくれた。そうだ、僕は7年前に大学合格者一覧に載ったのだ。もう一度、載せてもらえるようにがんばらなければと思って、母校を出た。
 12月は多くの企業が決算月である。その頃、朝7時30分に支店に着き、どんなに早くても午後9時すぎに支店を出る生活をしていた僕には、家に帰って勉強する体力と気力は残っておらず、受験勉強は遅々として進まなかった。
 昨日、家に着いて夕食をすませた僕は、子猫をお湯で洗ってあげた。猫は水を嫌がるのが普通だが、元気がないその子は抵抗することなく桶に張ったお湯に入った。僕は、子猫にドライヤーを当て、濡れた毛をドライヤーで乾かした。子猫はずいぶんと痩せていた。それから、魚の煮つけを細かく刻んで子猫に与えようと何度か試してみたが、子猫はついに口にしなかった。しかたがないので、ミルクをスポイトで口に近づけてあげたところ、2~3口、飲んだ。僕は一安心して、菓子箱のフタをベッド代わりにして、タオルをしいて子猫を寝かせた。
 夜中、僕は気になって目が覚めた。猫は肩で息をしていた。起き上がる様子はなかった。「明日、入学願書を書き終わったら、動物病院に連れていってあげよう」、僕はそう思って、眠りについた。

 1989年2月4日、金融機関の完全週休2日制が始まった。会社勤めを始めた頃は、週休1.5日だったので、僕は土日休みというのはとてもありがたいと思った。しかし、土曜日の午前中は疲れて起き上がれない。午前10時を過ぎてよやく目が覚めた僕は、昨日、猫をもらってきたことを思い出した。慌ててベッドの横に置いた菓子箱に目をやると、猫は横になっていた。まだ肩で息をしている。僕は昨晩のようにスポイトでミルクを飲ませようとしたが、口にしなかった。
 入学願書提出の期日が近づいていた。今日中に書き上げなければ、期限に間に合わない。しかたがなく、僕は先延ばししていた仕事に取り掛かった。しかし、未記入の入学願書を広げてみると、それは先の見えないはるかな遠い世界のことのように見えた。「僕はこれからどうなるのだろう。浪人かな」と思った。25才で浪人とは、高校生の頃、考えたことすらなかった。18才の頃、もっと人生を真剣に考えていれば良かったなと、いつしか入学願書を記入する手は止まってしまった。
 ふと、傍らの子猫に目をやると、ぜーぜーと息遣いが粗くなっている。さっきまでは肩で息をしていたのが、今は呼吸するのがやっとのようだ。これは明らかにおかしい。僕は慌てて電話帳をめくり、動物病院を探した。真っ先に目についた近所の動物病院に電話した。
 「飼っている子猫が風邪を引いたのか、弱っていて苦しそうです。すぐに診てください」と動物病院の受付に伝えると、電話に出た女性は、「分かりました。すぐに連れてきてください」と言った。

 僕はパジャマを脱ぎ、外出するために着替えた。猫の方を見ると、さっきまで苦しそうに息をしていた猫が箱の中で立ち上がっていた。僕は元気になったのかと思って、子猫を手に取って、机の上に置いた。猫の足元はおぼつかなく、ふらふらと立っていたが、2~3歩、歩き出した。僕は「良かった!これで大丈夫だ。動物病院にはキャンセルの電話を入れなければ」と喜んだのもつかの間、猫はバタッと小さな音を立てて倒れて、そのまま、動かなくなってしまった。  
 僕は猫を抱き上げ、揺さぶったり、さすったりした。意識が戻るかとしばらくやってみたが、子猫はすでに息をしていなかった。
 たった半日であったが、僕のそばに来てくれた猫が目の前で死んでしまった。僕の目から涙があふれてきた。僕は動かなくなった猫を抱きしめて、一人で泣いた。
 動物病院には、「先ほど電話したものです。今、猫は息を引き取りました。ご心配をおかけしました。つきましては、診察をキャンセルします」とやっとのことで伝えた。動物病院の受付の女性は「それは残念です。お役に立てず申し訳ございません」と言ってくれた。僕はそれを聞いて、また泣いた。
 子猫の亡骸は、庭の隅に埋めた。僕は受験が失敗して自分がどうなっても、強く生きていこうと思った。

 

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