デンタルオフィスみなと 公式ブログ

静岡県沼津市の歯科医院「デンタルオフィスみなと」です。

【日常】母の人生

母の通夜で私が読んだ喪主挨拶からの抜粋です。

 

 母は昭和14年4月24日、裾野市深良で生まれました。一美という名は、父親の名である宇一から一文字をもらって名づけられたそうです。

 地元の深良中学を卒業した母は「一回だけだったけど、学年で成績が一番になったことがあるのよ」とかねがね申しておりました。母のアルバムをひも解いてみましたところ、表紙にそれを裏付ける記載がありました。高校は沼津西高校に電車で通いました。そこで多くの友人と現在まで続く親交を交わしました。母は晩年になってからは、高校の同窓会の役員までさせていただきました。

 高校卒業後は沼津の会社に事務員として勤めました。母は23才になった年の正月に、今年こそは嫁に行こうと心に決めたそうです。父とはお見合いで知り合いました。2人は初めて会った日、父が運転する車で韮山反射炉に出かけ、沼津駅南にあったフォンテーヌというレストランで食事をしたそうです。スーツにトレンチコート姿の父は母を気に入って、「沼津に来ませんか」と母に聞いたそうです。母は沼津が好きだったので、「はい」と答えたそうです。これは、父なりのプロポーズだったようで、父は母の父親に「結婚の承諾を得た」と伝えたそうです。母は、露木家が農家であり、頑固な曾祖母と祖父がいたことを聞いており、やっていけるか自信がなかったため、返答に困ったそうです。しかし、母の父親は「一美ならやっていける」と、結婚に承諾したそうです。母は、父親がそういうならば仕方がないと、納得したそうです。そして、母と父が次に会ったのは、結婚式でした。

 母が露木家に嫁いで1年後に私が生まれました。3年後には次男が、5年後には三男が生まれました。その頃の露木家は、曾祖母、祖父、父と母、叔父、私たち三兄弟の8人家族でした。母は一人で、乳飲み(ちのみ)子から食べ物の好みが違う高齢の二人の世話と、炊事、洗濯、掃除をしました。

 やがて叔父が独立し、三兄弟は開北小学校に入学しました。その頃の開北小は女性の芦川緑校長先生が活躍されていました。母はPTAの役員をしておりましたところ、芦川先生にお声をかけていただきまして、できたばかりの静岡県東部婦人センターにパートで勤めることになりました。ここで婦人の就業支援などをしていたようです。芦川先生とは、その後もお付き合いが続きました。こうして、芦川先生との出会いが、母を社会に目を向けさせるきっかけとなりました。母は50才を過ぎて、アートフラワーの講師の資格を取り、およそ25年間、生徒さんを教えました。しかし、生徒さんたちがしだいに高齢化して人数も減ってきたため、昨年の秋に最後の展覧会を行いました。母は、ひとかかえもある大きな作品を展示し、「これまでの集大成ができた、やりとげた」と成功を喜んでおりました。

 話はさかのぼりますが、母が嫁ぐ1年前、露木家では祖母が49才で他界しました。母は嫁いだ翌日、曾祖母に連れられて、我入道のあたりにあるお稲荷さんに行き、そこで、祈祷師に乗り移った祖母から話を聞いたそうです。

 『あなたが来てくれて、本当に嬉しい。露木の家をよろしく頼みます。母(曾祖母)と夫(祖父)を頼みます。うちは財産を増やさなくてもいいから、減らさずに今のままを守ってください。あなたの子どもや孫には、初代や二代目の様子を言い伝えてほしい。そして子どもには行きたいところに行かせてやってほしい。息子(父)とは健康に気をつけて仲良く暮らしてください』と、祈祷師に乗り移った祖母は言ったそうです。

 母は、祖母の言いつけを心に刻み、曾祖母、祖父、父の3人を送りました。

 私は明治大学を卒業して銀行に3年間勤めた後、歯科大学に入学しました。歯科医師になった私は、2008年に沼津に戻り、歯科医院を開業することになりました。当時、娘はまだ3才であり、妻が娘の教育に専念するため、母が医院を手伝ってくれることになりました。母は「良治が沼津に帰ってきてくれて、嬉しい」と、喜んで白衣を着て、医院を手伝ってくれました。

 なんの持病がなく、病院通いなどしていなかった母でした。そんな母と別れは突然にやってきました。

 先月、私の娘の合格発表を母と家族全員で喜んだのが昨日のことのようです。大晦日には、家族全員でNHK紅白歌合戦を見ました。年が明けた5日には三島大社に母を連れて初詣をし、その後、カラオケにも行きました。7日の夕方、車を運転して外出から帰ってきた母は、いつものように医院の手伝いをするために1階に降りてきました。6時30分頃、母は突然ばたっと仰向けに倒れ、その音で私はすぐにかけつけましたが、かすかに呼吸をしていましたものの、すでに母の意識はありませんでした。脈をふれることはできず、1~2分で呼吸も止まってしまいました。すぐに救急車を呼び、沼津市立病院に搬送され、心臓マッサージ・人工呼吸器の治療を受けましたが、その甲斐なく、弟たちの到着を待って、午後7時50分、人工呼吸器がはずされて、死亡が確認されました。82才でした。CT撮影の結果は、大動脈解離による大動脈破裂でした。

 母が倒れた後、私がそばについていましたが、全く苦しむ様子はなく、眠るように静かに息を引き取りました。大往生であったと私は思います。

 母は、愚痴や不満を言わずに、私たち三兄弟のためにひたすら働きました。そんな母に感謝の言葉を伝えることができなかったことが悔やまれます。ありがとうございます。先に天国に行った父のもとで、ゆっくりと休んでください。

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【日常】母の葬儀が終わりました。

2022年1月7日に私の母・一美が82才の生涯を終えました。夕方、大動脈解離による大動脈破裂で突然倒れ、私が見守る中、そのまま眠るように静かに息を引き取りました。11日の通夜と12日の葬儀を、家族葬で行いました。生前のご厚情に心からお礼を申し上げます。ありがとうございます。

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【2022年1月8日 臨時休診のお知らせ】

【2022年1月8日 臨時休診のお知らせ】
2022年1月7日午後7時50分、私の母が大動脈解離で急逝いたしました。生前のご厚情に心からお礼を申し上げます。なお、都合により、デンタルオフィスみなとは、1月8日を臨時休診いたします。何卒、よろしくお願い申し上げます。

【歯科医療】Medical DOC 静岡県の口腔外科に当院の掲載が決まりました。

Medical DOCというサイトの「静岡県の口腔外科」に、当院が掲載されることになりました。近日中に公開予定のプレビュー画像です。トップの写真は、当院の診療室です。

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【小説】父 part 1 ~杉名の大学院進学~

【小説】 父 part 1 ~杉名の大学院進学~

 

 大学院に進学するにはお金がかかる。このことがネックで杉名は父親に大学院進学したい気持ちを言い出せずにいた。無理を言って、歯学部の6年間をようやく終えようとしている矢先である。国立大学ならば、学費は他の学部とそれほど変わらないが、私立だと考えられないくらい高い。信州歯科大学の学費も、他の私立の歯科大学と同様、とても高かった。簡単に出せる金額ではなかった。かつて農家であった杉名の家には自宅から少し離れたところに畑があった。その畑がたまたま道路拡張にあたり、そこを市が買いとって道路にすることになり、そのお金が杉名の入学金になったのである。その後も、毎年やっとの思いで杉名の父は学費を工面した。

 

 杉名の父・義雄は、頑固で気難しい性格で、家族のことなど考えたことがない人物であったが、仕事はまじめだった。義雄が勤める会社は、バブル経済がはじけた後も、主力のコピーやカメラが順調で景気がよかったが、長年勤めた義雄の職場は消耗品を作る部門であり、その頃台頭してきた中国製の製品に押されて不採算になってしまった。義男には消耗品部門が閉鎖されることが伝えられ、同時に石川県にある工場への転勤の話しもあったが、義男は新しい職場になじむことができる自信がないということで、杉名が大学4年の時に、35年勤めた会社を退職していた。義男は当時としてはかなりの額の退職金を手にしたが、杉名の学費のために、そのかなりの部分を使ってしまった。

 

 義男はタバコが大好きだった。家にいる間は、ひっきりなしと言ってもいいくらいにタバコを吸っていた。それだけでなく、ビールも好きで、1日に大瓶1本は飲んでいた。杉名の母は、フラワーアレンジメントを教えていたので、日中はいないことが多かった。退職した後、義雄はなにもせず、家にいることが多かった。母がいない時は義雄が飲むビールの本数が増えた。

 

 杉名は、歯科大学の卒業が近づいてきたある日、実家に帰り、両親に打ち明けた。古くなって汚れが目立ってきた実家の壁を白く塗り替えるのにも反対した義雄だったが、意外にも賛成してくれた。義男は言葉少なに「おまえがやりたいというなら、やってみろ」と言った。「親父、ありがとう」と杉名もまた言葉少なく返事をした。杉名は予想していなかった父親の返事に心の中で感謝した。

 

 その晩、家族で食事をした。「家族みんなが元気で集まったね。こんな幸せな日がずっと続くといいね。」と母は言った。杉名もあらためてこうして家族全員が集まって食事をできることが、ふととても貴重なことに思えた。

 

 杉名が17歳の時に祖父が他界して以来、14年間、杉名家の家族構成に変化はなかった。この顔ぶれがこのままずっと永久に続くような気がした。そう思った瞬間、言い知れない漠然とした不安が頭をよぎった。ちらっと見た義雄の顔の皺は、いつの間にかずっと増えていたのだった。

 

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