デンタルオフィスみなと 公式ブログ

静岡県沼津市の歯科医院「デンタルオフィスみなと」です。

【沼津郷土史】沼津大空襲と三井精機・高沢公園の給水塔

 

沼津市駅北にある高沢公園の南東の隅にはかつて給水塔がありました。1964年(昭和39年)生まれの私は、高沢公園に遊びに行くたび、この給水塔を目にしていました。祖父は私に「大戦中の駅北には三井精機という軍事工場があって、高沢公園の給水塔は三井精機のものだよ」と教えてくれました。当時子どもであった私たちの間では、「給水塔の地下には地下壕があって、給水塔の中には地下壕の入り口がある」という噂がありました。残念ながら、給水塔の入り口は固く閉ざされており、中に入ることはかないませんでした。

それからずっとこの給水塔が気になっていました私は、21才の時(1985年)にカメラで撮影しました。私の幼少期の思い出の中に必ず登場するこの古びた給水塔がいつか取り壊されてしまうのではないかという不安が、私にはあったからです。

それから私は沼津を離れ、2008年に沼津に戻ってきた私は歯科医院を開業いたしました。長い間離れていた間に沼津の街並みはすっかり変わってしまっており、私が気になっていた高沢公園の給水塔は無くなっていました。

私が生まれて育った沼津市本田町には、石蔵や長屋門があり、江戸時代に新田開発された沼津新田の歴史を伝える石碑とともに、古い集落の名残を残しています。沼津新田は沼津海軍工廠と三井精機という2つの大きな軍需工場に囲まれており、沼津大空襲でこの2つの工場は炎に包まれましたが、私の家は奇跡的に焼けることがなく残りました。私は曾祖母・祖父・父母から、沼津大空襲の話を聞いており、後世に伝える必要を感じ、『沼津が赤く燃えた日』と『曾祖母の石蔵』を作りました。

この二つの動画を作るにあたり、文献や古い絵葉書などの資料を集めましたところ、これまで私が三井精機について知らなかったことが、次々と分かりました。

youtu.be

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 youtu.be

 

 

 

古い工場の絵葉書は私が所有しているもので、東京絹毛紡織株式会社の沼津工場新築落成記念(1919年12月)のものです。入手した時には気づかなかったのですが、この絵葉書の構図は、現在の沼津駅北の高沢公園付近を写した写真であることに気づきました。

私はもしかしてこれが後の三井精機かと思い、三井精機をネット(Wikipedia)で検索してみましたところ、上毛モスリンで三井精機がヒットしました。これによると1919年に東京絹毛紡織株式会社の沼津工場が操業開始しましたが、私が所有している東京絹毛紡織株式会社の絵葉書の工場は、翌年に火災により全焼しました。その後、工場は再建され、1921年に富士毛織株式会社と改称、1923年に上毛モスリンが富士毛織を買収、1927年に沼津毛織株式会社となり、1941年に大東紡織が沼津毛織を合併、1943年に三井精機工業がこの工場を買収し、沼津製作所となったということが分かりました。そして1945年に沼津大空襲によってこの工場は焼失しました。しかし、工場の敷地内にあった給水塔は空襲の被害をまぬがれ、戦後もしばらくの間、残っていました。

ja.wikipedia.org

『沼津工場』の沿革は、Wikipedia「上毛モスリン」より引用しました。

カラー印刷の古い絵葉書は、1923年の沼津市制10周年記念の時のものです。沼津駅南から沼津駅北を描いたものです。画面の中央上に給水塔らしき建物があります。

ネットで「高沢公園 給水塔」を検索したところ、X(旧Twitter)で私の写真を引用した「さむ@urakutenism」様の記事を発見しました。そこには1941年(昭和16年)の沼津駅北の航空写真があり、三井精機の敷地内に給水塔があった様子を確認することができました。上の沼津駅北の写真は、「さむ@urakutenism」様の記事から引用させてもらいました。ありがとうございます。

戦時中は、沼津女子商業学校や沼津高等女学校(現沼津西高校)から動員された学生たちが三井精機で働いていたようです。当時、三井精機は航空部品を作っていたようです。237と240の図は、『ふるさとの思い出 明治大正昭和 沼津 』P92-93より引用。

ネットで見つけました戦前の沼津の地図です。アメリカのテキサス大学のサイトで公開されている1945年アメリカ陸軍地図局作成のものです。空襲で焼失する前の沼津の市街地の様子が分かります。

上の写真は、大戦後の1947年(昭和22年)の沼津市街地の様子です。沼津市明治史料館刊『写真・史料にみる占領期の沼津』より引用しました。

上の沼津大空襲の消失範囲の図は、明治史料館刊『市民が見た昭和の戦争』P65より引用しました。

前述の3つの写真を私が編集して並べてみました。1945年アメリカ陸軍地図局作成の地図を拡大すると、駅北の三井精機付近に2つ「Water tower」がありますので、それを→と赤丸で記入しました。

戦後の沼津駅北の写真は、X(旧Twitter)の「さむ@urakutenism」様の記事から引用させてもらいました。

空襲後の沼津市街地の様子です。画面中央上に給水塔があります。画面左上にももう一つ給水塔があります。明治史料館刊『市民が見た昭和の戦争』P68より引用しました。

上の写真は昭和30年代初期の写真です。高沢公園の給水塔が写っています。『沼津今昔写真帖』P15からの引用です。もう一つの給水塔が戦後のいつまで残っていたのかについては、いろいろ調べましたが、分かりませんでした。

上の航空写真は1988年に撮影された『空から見たふるさと 沼津』P25より引用しました。画面右下に高沢公園と給水塔が写っています。

現在、第二次世界大戦終結してから70年以上の年月がたち、沼津駅北の市街地には三井精機や沼津海軍工廠の建物やその遺構を目にすることができません。戦争の惨禍と焼け野原からの復興へと尽力した先人たちの苦労が人々の記憶からも失われつつあります。私たちは、こうした沼津の歴史を後世に伝えていく必要があると思います。

 

【参考・引用資料】

沼津市明治史料館『市民が見た昭和の戦争』平成27年7月1日発行

沼津市明治史料館『写真・史料にみる占領期の沼津』1995年12月20日発行

高沢公園の給水塔の写真 筆者所有

古い絵葉書 筆者所有

https://ja.wikipedia.org/wiki/上毛モスリン 2023年8月27日 閲覧

https://maps.lib.utexas.edu/.../japa.../txu-oclc-6543816.jpg  2023年8月27日 閲覧

株式会社国書刊行会『ふるさとの思い出写真集 明治大正昭和 沼津』 昭和59年10月20日発行

郷土出版社『沼津今昔写真帖』2008年8月発行

X(旧Twitter)「さむ@urakutenism」様

静岡郷土出版社『空から見たふるさと 沼津』1988年11月6日発行